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☆京都のお天気:時々陰暖気甚 (『嵯峨実愛日記』) >第一次幕長戦 ■将軍進発問題 【京】元治1年9月8日、在京の越前藩重臣等は、江戸に使者を派遣して将軍上洛を建議することを決めました。 〇中根雪江の備忘録(枢密備忘)のてきとう訳 会津藩の周防恒吉(=諏訪常吉)が昨日申した将軍上洛について、本藩からも建議すべきかどうか協議した。(将軍上洛は)もとより少将公(=茂昭)も緊要と認められ、既に昨日、一橋中納言殿に御相談された程のことなので、誰も異議なく速やかに(茂昭が)建議さるべきと決定した。 <ヒロ> 将軍上洛/上坂は会津藩の藩論で、9月1日には公用人手代木直右衛門が中川宮を介して土佐藩に将軍上坂建議を促しています(こちら)。諏訪常吉は公用方にも出仕していた御供番です(後に公用人に出世)ので、打てる手はすべて打とうという公用方の方針の下、越前藩に働きかけた可能性は高いんじゃないかと思います。 参考:「枢密備忘」『稿本』(綱要DB 9月8日(4))、『幕末会津藩往復文書』下p316 【京】元治1年9月8日、在京の西郷吉之助(隆盛)は、国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、9月1日に京都を発った有馬新助・海江田信義に将軍上洛周旋を指示していたこと等を知らせました。(前日も一蔵への書簡を認めていますこちら) 〇吉之助書簡のてきとう要約。
<ヒロ> ・(※1) 東本願寺は徳川家と所縁の深いお寺なので、会津藩が意図的に放火するとはちょっと思えないです。7月19日の禁門の変当日は、どちらの側も大砲をぶっ放していたし、長州藩も退却するとき屋敷に火をかけたというし。確かに、翌20日には残党狩りと称して、会津・彦根が市中を焼きうちしまわっていたそうで、東本願寺が焼失したのも20日だそうですが。会津の仕業というのは確実な情報というより、西郷がそういう噂を鵜呑みにしていたっていうことでしょうか。実際、禁門の変後の会津(と配下の新選組)のやり口の悪評は勝海舟の日記からも明らかだし(こちらとかこちら)。 ・(※2) 薩摩藩も戦争当日は火攻めはしまくっていたし、会津藩が市中を焼き討ちしていた20日にも嵯峨で天龍寺を焼き討ちしてました。西郷が禁門の変後に送った手紙をみると、彼は「一時の愉快」を満喫して火攻めを自慢していたように思うのですが、手のひら返しすぎます・・・。(20日に嵯峨に行っていた西郷に西本願寺焼き討ちの沙汰がでるのも変な話です) ・(※3)西本願寺侍臣だった西村兼文は、後年、「本願寺の家来芝田有右衛門、小山藤作、楠原与一等は長州藩京都留守居乃美織江以下落藩士来りたるを憫み、飛雲閣に潜伏せしめ、姿を更て本国に落したり。此事露顕して小山、楠原縛せられ、獄に下れり」と記しています。 ・(※4)海江田信義=有村俊斎です。生麦事件の当事者です(横浜で外国の事情を探索するのに適任なんでしょうか??) ・(※5)内大臣近衛忠房が将軍上洛周旋について西郷にいってきた背景には、もしかすると近衛忠房vs二条関白・中川宮(会津・肥後と緊密)という朝廷内の勢力争いがあったのかも? ・(※6)もちろん、これは幕府の禁じる密貿易です。裏でこういうことやりながら、よく他藩を批判できるなと思うのですが・・・その面の皮の厚さには恐れ入ります。 参考:『西郷隆盛全集』一p386−392、『新撰組始末記(壬生浪士始末記)』(2018/5/17) 関連:テーマ別■第一次幕長戦(元治1) |